『オレ様』について byかんとく

本日は久々に家でマッタリと料理し、湯船に浸かった。

ここ2週間くらい、なんだかバタバタしていた。

いろいろ刺激になることも多かったが、緊張する部分も多かったのだろう。

ボクシングで使う筋肉と同じで、ずっと緊張しっぱなしだと

人間とはいつかはバーストしてしまうし。

明日は仕事でゴルフ場に向かわねばならず、練習に参加できない。

明後日は東西対抗か。さすがに遠いし、車で会場にはいけないしなあ。

久方ぶりに新喜劇位の時間に起きて、ダラダラ過ごす日曜日にしよう。

残念だ。

などと書いていると、ほんまに『オレ様』について書いとるやんけと

思われるんだろうなあ。(ニヤリ)

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さて、昨日穂積の試合の帰りに、某指導者と一杯引っ掛ける。

どこの指導者も一緒で、いろいろと選手に思うところはあるようだ。

そんな話をしていたので、本日手元に本が無いこともあり一冊購入。

西図書館がやっと明日から再開なので、あさって借りに行こうとおもうが。

本日購入は諏訪哲二著『オレ様化するこどもたち』。

うちの選手はオレ様だという風には思っていない。

別に他意はないのであるが、大体子どもというのは時代や環境に

大いに影響を受けるものである。

影響を受けなければ成長できないのだから当然だ。

だからこそ、現在の若者といわれるものがどういう時代にあったのか

再確認のために読もうかと思ったわけである。

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著書によると(まだ80頁ほどしか読んでいないが)、

現代は消費社会的段階なのだという。

この段階は生まれて早い時期から、消費が当たり前の世の中ということだ。

個が個として消費できる世の中であれば、当然に自分の心一つで

好きなものを選べる時代であり、資本主義原理主義のもとでは

人は「他の奴らは知らん、俺が得したい、損したくない」となっても不思議は無い。

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だが、それが当たり前になったのはごく最近で、

その前は産業社会的段階(家族単位の時代)であり(戦後か)

さらに前は農業社会的段階(ムラとか共同体単位の時代)であったため、

心一つで何かを選択することはできない。

選択一つに様々な金銭的、人間関係的なファクターが存在していた。

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消費社会的段階では上記のような関係が無いため、

なんでも自分自身ができるという「全能感」がこどもの中にも生まれ、

教師などに対して、「あんたとの付き合いにどんなメリットがあるの?」と

考える子供が出てきても不思議ではない。

資本主義の暴走、そしてインターネットやコンビニなどの便利な物の普及で、

教育自体も様々な選択肢があってもいいんじゃあないか、

生徒、保護者はお客なんだから、店員である教師はサービスがよくて当然だ、

となっているのではないか、という内容であった。

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別にうちの選手がこどもだとか言うつもりは毛頭無い。

というか、気がついたことはガンガン言っているので、

同学年レベルだったら、結構大人だと評価されるんじゃないかと思う。

とはいえ、女性のほうが大人なので就職活動において、

女性相手でも勝てるとは言い切れないけれども。

ワタクシが大学生だったときよりは、とりあえず大人だ

といわれるようになってほしいと思っている。

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まあ要は選手の世代全体に通じるようなバックボーンがあるんではないか

と思って読んでいるわけである。

もちろん、其々の育ちがあるので全部に当てはまるなんて思っていないが、

「too shy to talk」な監督なんでそんなん読んでいるというだけの話。

以上落ち無し。

byかんとく

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