『セレモニー』について byかんとく

本日朝刊を読んで、気になるのがO市市長の「国歌斉唱では起立」条例。

ワタクシも基本的に、「そこは起立すべきでしょう」という立場である。

特にそういう時は入学式や卒業式。通過儀礼として大切な節目なんだから。

儀式で模範となるべき人民が、礼を失する対応はマズかろう。

示しにならんわけである、子どもらの。

あと忘れちゃならんのが、見ているのは子どもだけではないことである。

まあハッシーはニュースという舞台から降りて、オトナの対応すべきだと思うが。

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そういえば思い出したが、私が貧しい港町で高校2年生のとき。

1つ上の学年の卒業式の終了直前、卒業する人民の有志が舞台上に上がった。

何の演出なのかと思ったら、どうも卒業人民有志だけで策を練っていたらしい。

で、あーだこうだと自分たちの思いというものを演説っぽくやっていた。

なぜかワタクシの学年の学年主任先生がお怒りであった。

「大切な儀式である、それをこんな形にするとはなんぞや」というわけである。

友人の一人も同じことを言っていた。

でも高校生のワタクシにとってみれば、どうでもいいので早く終わってほしかった。

大概の儀式は粛々と進む。つまりリハーサルをすればするほど暇になる。

そこに突発的なことが起きたとて、考えの浅い卒業生の話なぞ聞くに堪えん。

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まあ基本的には儀式や形式は、見方によっては意味のないものである。

入学式も卒業式もそれを実施したからって、

本人たちに万感の思いが浮かんでくるもんかといえば、それぞれだ。

(少なくともワタクシには小中高大と全くなかった)

本人たちのためといいながらも同時に入学式、卒業式は

親のためであり、また教師側のためにあるという考えもできる。

いうなればそれぞれの立場の人民にとって、区切りというものである。

生徒が3年間過ごして卒業していく。

それぞれの生徒に卒業式という終わりがあるからこそ、

教師も日々の授業の中で、無意識的にも終わりを感じることができると思う。

子どもなら目の前のことが面白ければいくらでも夢中でいられるが、

大人になると、終わりという認識なくして、目の前のものに集中することが

難しくなると思うのはワタクシだけかね。

そういう意味で、終わりは大人にとっての大事なスパイス。

明日はボクシング部の追い出しコンパ。

by わが部の部歌っていうのもあったらおもろいかと思い、サブ=キタジマの

   『フェスティバル』あたりを儀式ごとに歌わせようかと常々考えている、かんとく

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