『過去に、ずっとあったことなんだね』について byかんとく

『ずっとウソだったんだぜ』という動画を見る。

ネット上では、賛否両論、侃々諤々。

なかなか言えないこと(タブーというもの)を歌詞に託すのが、

ロックというのならば、たぶんロッカーとしての一つのあり方なんだろう。

正しいとは言わんし、間違っているとも言わん。

そもそも、ロック的な生き方がワタクシの頭の中の辞書にない。

が、同時に反論する「いま、原発の被害拡大を防ごうと懸命になっている人たちがいる。

なのに、何でこんな曲を?」という意見も当然であると思うが、

同時に「言うべきものを言ってるんだ、匿名じゃなく」と思っているであろう本人は

当然に世の批判を受け止めざるを得ないのも事実である。

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おそらく、優チューブ的なものが存在する前に、今回の事故が起こっていたとしたら、

おそらくこの曲は世に出ていなかったであろう。

そういう意味では、前提条件がそもそも以前とは大きく異なっているから、

その結果も大きく異なってくることになる。

出るべき時に出てきた動画であるのかもしれない。

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別に原発行政のことをあれこれ言おうという文章ではない。

読んでいた本に『メディアと日本人~変わりゆく日常』(橋元良明著、岩波書店)

というものがある。

この中に”電話の普及による時間の拘束性”というものがある。

電話の普及によって距離の相手との情報交換に寄与があったのは

当然に誰もが知るところであるが、と同時に今までになかった”拘束される時間”が

生じるようになったということである。以下引用。

「空間の制約を緩和する一方で、電話の効果のもう一つの側面は、

時間の拘束性を強めたことであろう。電話というリアルタイムのコミュニケーションの手段は、

時間の共有も意識させる。自分一人では、今何時か気にならなくても、

コミュニケーションの相手がいれば、自分の時間も相手と相対的につながりをもつ。

相手から『八時から見たい番組がある』と聞かされれば、否応なく私も八時を

意識せざるをえない。私の時間は、私一人のものではなくなる。

電話で頻繁に取り交わされる訪問や待ち合わせの約束も、社会的時間の縛りを

個人の領域に持ち込んだ。電話が普及してから、時間の制約を受けない突然の訪問は

マナーに反したものとみなされるようになった。」(上述著書、p.27~28)

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つまり、アポ無しで急に家にこられたら迷惑である、という時代になったというわけである。

が、前に”インターネット落語寄席”で聞いた話によるとこんなものもある。

「師匠に、あるいは先輩落語家に中元・歳暮を届けるとします。

皆さん一般の人であれば、送付したり、持って行くにしても電話したりしますね。

が、我々が中元・歳暮を届けるのは、体を持っていくって言うことが大事なんです。

電話で『いついつ行きます』なんていうと、師匠、あるいは先輩の時間を

拘束してしまうことになります。

これは他の予定もあるかもしれない師匠、先輩にその予定を入れるな、という意味で

失礼に当たる、ということにもなるかもしれません。

でもって、暑い日に体を運ぶんですけども、まあ相手がいないことも当然ある。

そしたらどうするか、日を変えて時間を変えて届けるんですね。」

そういうものの考え方もあるんですな。

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記述の書に話を戻すと、携帯電話が出る前、普及した後、

インターネットが出る前、出た後、遡れば文字ができる前、できた後。

その時代は大きな時代の転換点となっている。

そこそこにおいて、人間はその利用の仕方に折り合いをつけてきたわけである。

今回の動画使用と、原発復旧も、それぞれの人々が折り合いをつけていく、

今その瞬間なのかもしれない。

表題にもどれば、ずっと過去の人々はこういうことに接してきたんだね。

折り合いをつけるのは、もちろんそれぞれの立場のナマの意見とともに、

確かな知識を得ようとし、そしてその相手がどういう意見・感情を持つのか、

といった複合的な事柄を吟味していく想像力なしには語れない。

新しい技術との付き合い方、難しいですね。

by 各大学のボクシング部HPが百花繚乱でうれしいが、この新しい技術に

どう取り組んで行くかも考えいかなあかんなあ、とおもっている、かんとく

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