ボクシングの基本についてとりあえず書いておきませう。
がんがん更新しないと誰も見なくなるのがホームページの宿命だし。
ボクシングの基本とはなんぞと。
というか、人生の基本とは。まだ理解しきれてないけども。
以下に書くことは人によっては気分の悪いことかもしれない。
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世の中でよく言う大事なものとして「心技体」と言うものがある。
この三つは間違いなく大切なものだと思う。
心、何かに打ち込む情熱。
技、間違いなく情熱を形にするための技術、熟練度。
体、体力、あるいは技術を身につけるため、あるいはあきらめないための継続力、そして続けていくための力。
まあよく聞く言葉だ。
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だけれども私はあえて問おう。大事なものは「体技心」ではないか。
言い方が悪いが「心技体」は理想の部分が大きいのではないか。
と言うか、その並び方が気に食わない。
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心、スピリッツは確かに大事だ。
でもどうだ?実際新入生として入ってきた奴で「こいつええやん」とほめられるのは
大体、野球部、サッカー部、ラグビー部、あるいは他の競技でもIH、国体に出た選手。
理由は体力があるから、技術をすぐ吸収するから。
また、試合ならば圧倒的なパンチ力の選手を前に
どんなに心が強いと思われる選手でさえ、負けているのを私は何度も見た。
どんなに心が強くとも、結果として一方的な展開になれば
心が折れないほうがおかしい。
実際、心技体と言う言葉を信じすぎたから若者だからこそ、
純真な心を持った人間が社会人で心を病む状態を私は何人も見聞きしてきた。
たかだか8年くらいにも関わらずだ。
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だからこそ私は「体技心」が本来の姿ではないかと思う。
実際、一撃で倒される人間、圧倒的なパワーの選手を相手にするのは嫌だ。
N出さんとか嫌ですもの。
技のあるやつも追い詰めても逃げるから嫌いだ。
僕どんなんでも耐えれますわ、と言う選手は大したことない。
だって、じゃあコイツはどう料理してやろうかと思える。
料理される危険性がないからね。
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だからこそあえて言おう。
試合に関しては「体技心」だ。
体力、センスのある選手はすごいと思うね。
でも思うだけでは悔しくないか?とおもう。
そいつは多分小学校とかでもクラスの選抜リレーとか出てた奴だ。
(↑は多分に私の思い込みだが)
多分、そんな奴は小中高と女子にモテていたはずだ。実に憎たらしい。
(↑は間違いなく私の思い込みだが)
でもいつまでも負けていていいのか?
社会に出ればうちの大学の一般学生よりも頭のいい奴はわんさかおる。
これは間違いないわ、文系でも数学なり物理なりを当たり前にこなし
さらに同等か、それ以上に大学で研究してきましたって胸を張っていう人間がいる。
そういった人間は何でもソツなくこなす。
当たり前だ、なんでも対応できる人間になろうとした人間だからね。
悔しいです!
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で、ここで本題に立ち戻ろう「体技心」
今は!先輩たちほどには無い体力。
今は!できないすごいコンビネーション。
でもそれは何が何でも身につけようという心と、繰り返し練習する習慣によって間違いなく身につくのではないか?
これは私の体験からも言えるし、私が知っている人間も何人も実践してきた。
今現役諸君が知っている人間に、たとえていうならば今ちゃんだ。
入部当初はセンスはまったくなかったと、あ・え・て、言おう。
でも彼が今もなおセンスがない、とは俺には思えない。
なぜならば私がそう思っていながらも、彼は自分の力でさまざま技術、そして体力を身につけてきたからだ。
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彼にそうさせたのは何か。
結局自分にうそをつかない心だったと思う。
「負けたくない」「勝ちたい」と言う彼を他の奴が笑ってたとしても、
結果を出すために真摯に目の前のものに向かい合ってきたからだと思う。
よく言う言葉であれば「努力」というものかね。
まあ、彼が一番可愛いし、入替え戦で勝たせてやれなかったのは自分でも情けないがな。
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私は努力と言う言葉は高校くらいから嫌いだった。
青臭いし、プロセス得てるから結果はどっちでもええんちゃうみたいなのが嫌いでした。
だけれども、自分の思っていることに対して真摯に向き合う事が一番大事じゃないかとおもう。
今の世の中いろんな情報が氾濫しすぎて
それに振り回されて、自分の気持ちってのを
表現しにくい状態になってるけども
どんなに情報社会になろうとも、自分がこんなんしたいとか、こういう風にしたらぜったおもろーやなとか
そんなことがないと人生何も楽しくないんじゃないか?とおもってしまう。
逆にそういう楽しみがあればこそ、技術なり、体力が身についていくのかもね。
楽しみがない?じゃあ作れ。
以上、堂々巡りでした。
BYかんとく