昨日、中谷氏の結婚式、並びに2次会、プラスして彼の同期ばかりのなかに
ワタクシも勝手に加わった3次会に出る。
正午より23時まで浴びるほど、スポーツドリンクを飲む。
おかげで本日よく寝れた。というか寝すぎた(ニヤリ)。
まあ、式の云々は前項を参照していただくとして、
彼の同期の出し物はなかなかに面白かった。
”過去の所業を事業仕分け”というのは良かった。
新郎をよく知らない人に、楽しんでもらいながら人間性を知ってもらうために
テレビでよく見た図式を用いるという方法はありがちだが強い。
安直に新郎の過去を表現するのにちょうどよいミット打ちというものがあるが、
ボクシング部の陥りやすい罠だ。
昔、世界チャンピオンが試合に向けて”要は気合”ということを言っていたが、
結婚式の出し物に関しては、”要は工夫”であろうと思う。
丁稚先の同期が来月結婚するので、ワタクシ仕切りの出し物も見習う事とする。
・・・・・
さて、”ご縁”の賜物である結婚という行事。
読者の皆様はお気づきのことと思うが、ワタクシは基本的に節操がない。
キリスト教の大学で学び、いいところは取り込み、
実家が仏教の檀家であるので、坊さんが言ういい物は我が物とする。
先般読んでいた本に、”御縁”の記述があった。
松本圭介著『東大卒僧侶の「お坊さん革命」~お寺は最高のエンタメ発信地』(講談社)
ここに良い記述があったので引用する。
「何事も心身を整えて真剣に取り組めば、自然とやるべきことのほうへ
近づいていくし、野放図でいれば、やるべきでないことに引っ張られていく。
やるべきことのほうに近づくと、よい人に出会えさらによい展開が生まれる。
逆に向かうと、集まる人の空気は淀み、足を引っ張り合いながら一緒に
落ちていく悪循環にはまる。
その意味で、やるべきこととやるべきでないことを見極めたければ、
やる内容ばかりではなく、それをやる仲間がどんな人であるかも非常に重要だ。
仏教で『サンガ=僧団』を重視するのもそのためだろう。
どんなに能力が高くても、その人の周りにきな臭い空気が立ちこめていたら、
やはり近づかないほうがいい。
そのためには、縁を見極める力と、縁を引き寄せる力がとても大切になる。
私たちの身の回りにはよい縁と悪い縁がいくらでも転がっているが、
すべての縁を片っ端から形にしていくヒマはないし、だからといって、
何にも手をつけなくては人生が先に進まない。
~中略~
身の振る舞いを正す心がけは、社会的な地位を得るとか経済的に豊かになるとかの、
現世的な人生の成功を得ることにも確かに貢献するはずだが、
それはあくまでもささやかな副産物に過ぎない。
根本的な課題はいかなる木であれ、与えられた人生というその木そのものを
目一杯生きることだ。
~中略~
目先の損得で判断しようとしても、縁の善し悪しは見誤る。
楽で居心地のいい道よりも、たとえ困難でも自分の限界に挑戦していくほうが、
あらゆる意味で得るものは大きい。」
・・・・・
何となくそうだよなあ、と最近富に思う。
一生懸命やっても、出会った縁が悪ければなかなか結果に結びつかないかもしれない。
がと同時に一生懸命やっていると、何故か知らんが良い出会いというものもありうる。
以前には気づかなかったとしても、一生懸命やってみた結果、
「あの人のあの言葉は実はよく本質を得ているのではないか」と気づくことがある。
或いは一生懸命やっている者をみて、
「こうやったほうが良いよ」と近寄ってくれる人もある。
力、経験を持たない人間がまず最初に優秀な指導者を見つけ出し、
指導を請うのは非常に難しいことだ。
であるならば、すべてはご縁だとして、今あることに対して真摯に向き合う。
ただただ闇雲に取り組めば良いのではないことはもちろんだが、
まずは真摯に打ち込むことは、世の中にある良い縁をひきつける為の
秘訣であると思う。
と思うのは、以前に読んでいた内田樹先生の著書の中に登場する
”メンター”についての記述が頭に残っているからかもしれない。
そんなことを考えられるのは、ワタクシが人生で出会った人々や
出会った著書の数々のおかげである。
統計的に取り組んできたわけでないワタクシの読書遍歴で
そういった物事の考え方に至ったのも、ある意味のご縁の賜物。
そういえば、このHPでも色んなご縁がある。
そういうご縁に感謝せねばならんなあとおもう今日この頃でした。
by かんとく