『合理化』について byかんとく

昨日は、仲魔さんのことをボロクソに書いた。

が、ボロクソに書いたのは、仲魔さんだけを対象に書いたわけではない。

仲魔さんはすぐ誤魔化す。

ボクシングに限らず、彼は特に体力面で優れているわけでもなく、

”運動的センス”が特に優れているわけでもない。

だからその対応策として、彼自身が知らず知らずのうちに誤魔化す

という方法をとってき、それが身についてしまっているのだろう。

彼が生きてきた過程の中で、自分の内面を傷つけずに、

物事をやり過ごすために必要であり、必要な技術だったのだろう。

だが、今間では彼のその行動が目立っていたが、誰しもそれを持っている。

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例えば他の何かの競技に挑戦したとする。

で結果がダメだった場合、それを「あのときは体調が悪かったから」

或いは「審判が適切な判断をしなかったから」という言葉を

外に出さなくても、自らの心の中で語った経験は誰でもあるだろう。

人間が自らの内面を否定しない為に使う方法として、

心理学で言うところの”合理化”はよく行われることだ。

一般的に”運動的センス”が高い人間は、スポーツにおいて

合理化しなかったというものもいるかもしれない。

だが、例えば異性から受けた、酷い行動をされたことがきっかけでの失恋であったり、

飛行機事故やテロによる、肉親の悲惨な死別があったとする。

そういう突発的出来事という状況下で、合理化せずいるというならば

その人はどんな思考回路なのか尋ねたいものだ。

つまり、どんな人間の中にも”合理化”と言う機能は存在しているのである。

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要は”合理化”自体が悪いのではない。

そこが”合理化”に値するものか、あるいは”合理化”することによって

自分がどういう状態に陥るのかという、予見能力、或いは想像力といってもいいが

それを働かせようとしないことが問題だ。

子どもである自分が、大切にしていた玩具を年長の子どもに

力づく出とられて喧嘩して負けたとする。そのときは合理化すべきだろう。

だが、一人の大学生として、一つの競技に取り組む際に

「合理化してますよ」といって大手を振っていては、

そこで身につくはずの学びの機会は遠く離れていく。

自分の心の動きとともに、それをどう表現するべきかは学ぶに値し、

それこそが成長するということだろう。

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また”合理化”には別の意味もある。

「わが国は正義の国」とよく言っている国がよく使っていたが、

昨今では、ブレるのがお好きな首相を勤める国でも、使われるようになった。

「無駄を省いて能率化すること」という意味で。

この首相は無駄と多くの人が大切と思っているものの見分けがつかないようだが、

この理由はビジョンがないからではないかと、ワタクシは密かに考えている。

「無駄を省いて能率化すること」という意味での”合理化”とは、

ビジョンがあって、それに向かってこそはじめて出来るものである。

ひるがえってボクシングをしている人間において、

練習を合理的にやろう(合理化してやろう)と思う人は、

自分のもつビジョンを達成する為に、心理学的意味での合理化を

している時がないか確認してみてホシイ。

それがひとつ前に進む為の一助になるだろう。

by かんとく

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