『教義と競技と習慣と』について byかんとく

ここしばらく、あれやこれや口やかましく、

且つ全くもってツマラナイ文章を書いているので、

読者の皆様は退屈であったろうと察する。

まあ、ワタクシは文章に関してもアマチュアである。

ということで、許して(ニヤリ)。

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文章がいくらツマラナクても、酒によった訳の分らない文章を書いても

恥ずかしいと思っていないため、全然懲りないワタクシである。

ええやん、もともと聖人君子ではないしと全く自らの浅学を黙殺し書いてしまう。

そんな傲慢な存在であるからか、書かない日が続くと

やはり気が気でなくなるから不思議だ。

例えばカントクは毎日とある会社に丁稚に通っているが、

昔、どうにもやり切れないことがあり、仮病を使ったことがある。

すると、あら不思議、丁稚活動に従事していないことに罪の意識を感じた。

習慣というのは不思議なものである。

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積年の丁稚を続けていけば、おそらくそれが愛着と言うものになり、

定年退職なぞすれば、その達成感たるやすごいものだろう、と思う。

以って、聖人君子ではないワタクシはこう言い切る。

仮に「会社の為に働いている、何故ならばすべてが素晴らしいから!」と

声を大にしていう新入社員がいたとしたら、ワタクシはその人間を信用しない。

何故ならば、仮にその会社が素晴らしいとしても、

一つは愛情を持つには時間が短すぎる。つまりただ惚れっぽいだけだ。

もう一つは、そんな若造にその会社、或いは組織の素晴らしさなんて

すぐに分るはずがない。

人が行っている活動にどのような意味があるか、

或いはどのような素晴らしい効用があるか、なんて

一朝一夕に分るものではあるまい。

「素晴らしい」と言い切る若者は単純に、物事を考えてないかもしれん。

そう考えても、やっぱり信用できんわな。

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多分、偉大なリーダーたる人は、こんなことは言わんだろう。

言ったところで一害あって利益なしともなりうる。

ま、関学の監督さんは根性がまるでラビリンスのように

ひん曲がっているということで(ニヤリ)。

その心根のひん曲がっている監督さんは、

先般の試合での空き時間、また変な書物を読んでいた。

そのタイトル、『完全教祖マニュアル』(架神恭介、辰巳一世、共著。筑摩書房)

しかも音読である。この男が聖人君子であるとするならば、日本の終わりである。

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ま、音読は嘘である。そんな羞恥プレイできません。

『完全教祖~』はタイトルそのまんまの本である。

どうやったら宗教家として、活動し、教団を作れるのか、

という、また日本だからこそ許されるような本である。

著者が他国で出版すれば、或いは熱心な宗教家に暗殺され、

或いは、公安組織に拉致の上、拷問されるかもしれない。

ま、平和な国ということで。

監督が中学生くらいか、多感な時期に世界の喜多野(仮名)の映画を見、

「俺将来宗教つくろっかな、もうかりそうだし」と言ったことがある。

まだ猥褻動画がない頃であり(買えない頃?)、

日夜とほうもない妄想ばかりしていた暗愚であった。

母親はその愚息に「そういう考えはやめておきなさい。

人を不幸にして、殺されるかも知れないんよ」と

普段はただのおしゃべりのオバハンが注意していたことを思い出す。

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ま、今になって思えば無理だわな。

教義などを作ったとして、2,3こと喋り、

あとは信者にその意味を考えさせればいいところを

ペラペラペラペラ、いらぬ事まで喋るため、

全く薄っぺらな教義になりそうである。

そういう意味では、シオタあたりが案外適しているかもしれん。

私が将来道に迷ったら、尊師シオタに飯を食わしてもらおう(ニヤリ)。

・・・・・

さて、戯言が過ぎる。

まあ、そんな本を読んでいて思ったことが一つ。

各教は其々、色んな戒律などがあるもんだが、それは

その宗教になじんでいないものにとっては奇異に映るものもある。

でもその奇異に映る物こそ、コミュニティーに所属する者にとっては

他社とのアイデンティティーの違いを認識する機会になる、と著者は書いている。

そしてその認識こそが、より深くその教義に傾倒するきっかけになりうる、という。

つまり、その教徒として、より真摯に取り組むことになるわけだ。

なるほどなあ、と思う。

ボクシングにおいても同じことが言えるかもしれない。

たとえば、昔ながら誰もが持つ考えは『ボクシング=減量』という構図だろう。

ワタクシは現役の頃、この考えに強く反発しているボクサーであったが、

やはり、その教義には効用があったのではなかろうか、と思った。

というのは、減量というものをせねばならぬと思い、食を断ち練習する。

すると、これは日常とは切り離された行動である。

言うなれば、とある教団においては、神聖な修行である断食と同じである。

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そういう行動をしていく中で、自分がボクサーであり、試合に臨む、ということを

常々認識することになるのではなかろうか。

ワタクシはかつて、減量否定原理主義者であったが、

最後のリーグ戦で、チーム事情と主将という立場から

減量をせざるをえない事となった。

水を飲まない減量というのだけはやめようと、1ヶ月前からカロリー計算と

2部練+朝夕のロードワークをして落とした。

その際に思ったのが、減量期間を続けていくと、ある種の

「研ぎ澄まされていく感覚」というものを感じた。

意識がボクシングの試合に向けて、どんどん集中されていく感じといおうか。

他にもせなあかんこともあり、それもこなしていたが、

いつも頭の隅にボクシングがあった。

ま、そう感じられたのはそのときだけだったから、

減量をしなかったからボクサーとしてのメンタリティーを

学ぶ機会が遅かったのかもしれない。

とは言え、減量しなさいということではない。

試合もないのに減量してたら、ただのアホである。

なにかしらの行動をと継続することで

(ロードワークであるとか、体重を毎日図るとか、

器用なリードブローを身につけるために、利き腕でない手でご飯を食べるとか)

そういうものを体験してホシイ。

by かんとく

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