『昭和期と平成期における若者の欲望の形成過程の対比』について byかんとく

お塩先生がすごい。

本日昼休みにハイカラな純喫茶にて雑誌を読み、

お塩先生の”ありがたいお言葉”を拝読。

荷チャンネル(仮名)にて、よくお祭りが開催されている模様。

その辺のコピーライターでは思いもつかないような、ナウい言葉の数々。

勉強になるねえ(ニヤリ)。

そういえば、先般の国体予選で久々に関大のオグを見たが、

関学のシオはどうしているのであろうか。

多分腹筋でも鍛えてるんだろう。

・・・・・

さて、ワタクシがおる業界は8月が暇(俗に言われるニッパチが当てはまる)ので

夏合宿期間も含め、この2週間くらいは結構書籍を乱読していたので

代表的なものを書いてみる。

・金城一紀著『レボリューションNo3』(角川書店)

・みうらじゅん著『色即ぜねれいしょん』(光文社)

・藤原東演著『煩悩力』(経済社)

・内田樹著『下流志向』(講談社)

とこの4つをベースに『昭和期と現代における若者の欲望の形成過程の対比

~現代における社会不安増大の関連性について~』という論文を執筆した。

・・・・・

執筆は嘘だが、色々思うところあり。

特になるほどと思った者をちょこっと引用しよう。

年配の方々は、現代っ子を理解する一助とされてはいかがだろうか(ニヤリ)。

「僕たちの世代で、生まれて初めての社会的活動が労働ではなく消費であった、

家事労働の手伝いを経験するよりも先に、まずお金を使ったことがあると言う子どもは

ほとんどいなかっただろうと思います。

反対に、今の子どもたちは、もしかすると、その過半が生まれて初めての

社会的経験が買い物だったということになっているのではないでしょうか。

この最初の経験の違いは、かなり決定的なもののように僕には思われます。

~中略~
買い手が四歳の子どもであろうと、二十歳の青年であろうと、八十歳の老人であろうと、

原理的には同一の商品やサービスと交換されます。

~中略~

そこで使われるお金の多寡だけが問題で、誰がそれを使うかということには誰も配慮しない。

それが『お金の透明性』と言う特権的性格です。

ですから、社会的能力がほとんどゼロである子どもが、

潤沢なおこずかいを手にして消費主体として市場に登場したとき、

彼らが最初に感じたのは法外な全能感だったはずです。

子どもでも、お金さえあれば大人と同じサービスを受けることができる。

このような全能感は僕たちの時代の子どもが

おそらくまったく経験したことのなかった質のものだと思います。

~中略~

問題は金の多寡ではないのです。「買い手」と言う立場を先取することなのです。

『僕は買い手である』と名乗りさえすれば、どんな子どもでも

マーケットに一人前のプレイヤーとして参入することが許される。

その経験のもたらすしびれるような快感が重要なのです。

~中略~

子どもたちはそれからあと、どのような場面でも、

まず「買い手」として名乗りを上げること、

何よりもまず対面的状況において自らを消費主体と

して位置づける方法を探すようになるでしょう。

当然、学校でも子どもたちは、『教育サービスの買い手』というポジションを

無意識のうちに先取しようとします。

彼らはまるでオークションに参加した金満家たちのように、ふところ手をして、

教壇の教師をながめます。

『で、君は何を売る気なのかね?気に入ったら買わないでもないよ』

それを教室の用語に言い換えると、

『ひらがなを習うことに、どんな意味があるんですか?』という言葉になるわけです。」

(内田樹著『下流志向』p50-52)

・・・・・

内田氏は1950年生まれの、神戸女学院大学教授(2009.09現在)。

氏の詳細については、ウィキあたりで簡単に調べられるので割愛。

最近の若者論として、ワタクシが考えているのは下記3点。

【1】思うに、現在のボクシング部員は非常に真面目であると思う。

だが、この真面目というのは、どうも上の世代の方々(昭和期の卒業生)の言う

真面目とは趣が違うようだ。

上の世代の方々の言う”真面目”は

「目的に対して真摯に向き合い、最良の方法を選び取る気概」

という意味でおっしゃっていると思う。

だが、大学から始めた現役選手で割りに多いのが

「指導者の言っていることをやっておけば間違いないはずなので、

それをとにかくこなす姿勢」という風に見える。

戦後すぐのころのように、人がいないから誰でもなれるという教師ではない。

今の先生方は一流企業並に厳しい倍率を勝ち抜いたエリートであり、

かつ”かくあるべき教師像”が世論からの要請を受けている。

だからこそ、指導方法も的確で、”間違うことなぞありえない”先生であるのだが、

同時にその”正しい今年か教えない”先生に育てられているわけだから、

「真面目にやりさえすればよい」と思うのも、無理はないのかもしれない。

・・・・・

【2】昭和の指導方法は「とにかく、やれといったらやれ」という風な物も

多かったのではないかとワタクシは思っている。

軍国主義解体後すぐには、それが当たり前に残っている世の中だから

そんな感じでも違和感無くできたんだろうなあ、との考えられる。

だが現代の若者は上記の話ではないが、

正しい指導が当たり前の世で育ったからこそ、「効率的な練習」を求める姿勢あり。

これはいい意味でもあるが、同時に存在する背景を無視できない。

というのは、「効率的な練習」は「自身の最大パワーを出し続けて行う練習」であり、

これ以上ないほどしんどいものになる。

それは、かつて何らかの形で体験し、かつ乗り越えて結果を出した者でなければ、

簡単に「はいそうですか。やりきります。」と納得できるものではない。

だからやれといっても、すぐに最大パワーを出すことを投げ出しがち。

そういう意味ではメジャー競技経験者(特に野球部に属していたもの)は、

結構反復して練習する傾向がある。

中には”ただ反復だけ”している奴もいるけども。

・・・・・

【3】上記の買い物の話に関連するが、即物的に欲望を満たせる世界で育ってきた。

よって結果も即物的に求める傾向あり。

前にも書いたが、一つの技術を身につけるには2週間反復すれば

ほぼ身につくと思うが(それを試合でどう使うかの判断には他の鍛錬が必要だが)、

そこまで続かない。

翌週行って話をすると「やってなかったです。。。」とか言う。

とはいえ、彼らが幸せな現代に育ってきたことを否定もできない。

先達の作り上げた、そういう時代に生まれ育ってきたのであるから当然だろう。

・・・・・

上記の点を思案すると、昭和期の指導は、そのまま使えないということだろう。

それこそ、座学の時間も増やして、ポイントとなる部分を何度も噛み砕いて語り、

相手の心の中に染み込ませないと、ちゃんと理解してくれるとは限らない。

他の分野での交流も重要だろうが、一昔前のようにただ飯を食わせれば

心を開いてくれるわけではあるまい。卑しいワタクシはすぐ心を開いたが。

会話の中で瞬時に相手のポイントを抑えて、同時にそれに対応できるだけの

教養(本物のというのではなく、彼らの世代の文化を知っているという意味)、

或いは相手を引き込むほど、こちらの会話の幅がないといけないのかもしれない。

ボクシングの試合での反射対応のように(ニヤリ)。

by 小学生から自衛隊で軍隊的に育てられればいいのに、と

本論そらして逃げの考えを持ちがちな監督

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