『大学の伝統』について byかんとく

本日はスポーツドリンクを飲んだあと、西北まで帰ってきた。

そういえば料理教室帰りに、自転車を駐輪場に置き忘れていたと思い出したので、

本日とりに行くと、3日間で1700円になっていた。

屈辱である。

屈辱ではあるが、払わない限り、我が愛車の巨人号は返ってこないので、

泣く泣く機械の中に千円札を二枚を差し込む。

差し込んだ後に愛車をこいでいると、雨が降ってきた。

目も当てられない。

実に腹立たしいそういう環境を乗り越え帰宅後、

同居人にその姿を見られたので

「いやすまない、普段以上に水も滴る・・・」といいかけると、

「はいはい、いい男じゃねえ」とTVゲーム野サッカーをしながら言われる。

踏んだりけったりであった。

・・・・・

さて、気になったニュースについて。

現在の在校生が卒業後、某株式会社大学が閉学する模様。

画期的だと言われて、数年前に首都圏と関西圏に数校できたが、

 結局撤退か。

ワタクシが大学に入る前の15年前くらいに、

海外の大学の日本法人の広告を、当時あった雑誌の『蛍雪時代』で

みた記憶があるが、その後の話を聞いたことがないが、二の舞の模様。

・・・・・

実際それはそうであろうと思う。

学生をお客としてみていては、うまく行くはずものも、うまく行かなくなる。

新規参入ということは新入生の質は雑多であろう。

それを会社でのノウハウがあるから教えられると思うのは

傲慢というものである。

会社の経営する各種学校と、大学というものは文化として違いすぎる。

はっきり行って大学というものは、おいしい商売でもなんでもない。

中には変な学生が混じっている可能性は否定できない。

必死に工夫していい大学を目指そうが、彼らによって0に戻るどころか

マイナスにも作用する。

・・・・・

うちの大学もそうである。

数年前に、広島平和公園の折鶴を燃やすという、

それまでに聞いたことのない暴挙を犯した学生がいた。

それは企業が求めるデジタルの世界ではかれる世界ではない。

大学としてもはかれる世界ではなかった。

しかし、うちの大学の場合はデジタルの考え方という部分が

弱いのが幸いしたか(?)、広島市と和解し、

その後見事に学生に平和学習の機会を設けた。

これは何かと問われれば、教養であろうと思う。

専門を極めることは大切だ。

しかし、”Mastery For Service”というスクールモットーがあるように、

しっかりとした専門性、或いは技術のない者が

人に感情だけで接しては、より大きなダメージを与える可能性がある。

だがそれは、その奉仕に心がこもっているから前提から成立する話だ。

心はデジタルではない。

様々な経験、そしてそこから派生する感情を通した後、

こうしたいというものが明確になるものである。

・・・・・

そういう意味で、やはり伝統校というのは強みを発揮する。

変なやつが変な事件を起こそうとも、それをカバーしてやろういうOBもいるし、

いや、断固とした措置が必要だと唱えるOBもたくさんいる。

それらの按配は社会の按配とニアリーイコールであろう。

でもその按配に挑む、思いのある人たちがいる。

その結果として、より良い答えが醸成されていくのではなかろうか?

それが伝統の強さだと思う。

そういう意味で、ワントップになりがちな企業が大学に参入するには、

収益性の計算よりも、よほどの覚悟、言うなればどろどろになろうとも

学生に社会のあり方とともに、理想論も話せる人材がいなければ

難しいと思ったり。

まあ逆に伝統の強さのために、苦労していそうな大学も多数存在するが。。。

そこのOBあなたの言動のせいかもしれませんよ?(ニヤリ)

by ちなみに、うちの大学に関しては、現状のOBはバランス感覚がいいので

はありがたいと思っている、かんとく

(ただし、選手が訳わからんということをいきなり言う人には、

ワタクシから厳重注意させていただきますのであしからず。

ボクシング部に限らず、やれといったらやれ!では今の学生はついてきません。

学生とともにコミュニケーション能力を高めましょう)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください