『我々は何であるか』について byかんとく

本日は酒も飲まずに、早々帰宅。

昨日は前述の通り、プロレス懇話会に参加。

一昨日は、よく行くバーのマスターが店にターンテーブルを置いたので、

幼稚園からの同級生DJ”総長”を紹介。

マスターが「(ディスクの)まわし方を覚えたい」と言っていたので、

ビールが大好きなDJ総長に格安で飲ましてやってくれ、

とつないだのであった。

会社での生業以外にも、人のために役立つワタクシであった(ニヤリ)。

・・・・・

さて、ボクシングについて。

リーグ戦の詳細は先般書いたとおりであるが、どうも引っかかる部分があった。

なんというか、言葉に置き換えることがしにくいのであるが、

あえてここで言葉にしてみようと思う。

それは何か。

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別に特定の誰かが、マイナスなことを言っていたということはない。

特別目立つものがないからこそ、逆にワタクシは怖いと思うのだ。

それは、過去にも同じ雰囲気を経験しているからだ。

確か四年前か。

1部との入替戦の際のこと。

当時は大学からボクシングを始めた選手ばかりであったが、

4年生が10名くらい残っており、其々の選手はレベルが高かった。

2部は楽々優勝(を本人達はしていたつもり)であった。

ただ、試合に向かう人間に「変な」余裕があった。

何となく「勝てる」と思い込んでいた、とも言おうか。

今にしてみれば選手ばかりではなく、私の中にもそれはあったのだと思う。

現に4年生の1人は大事な試合にもかかわらず、選手手帳を忘れていた。

OBの方々からは、そんな奴は辞めさせろと言う話もあったが、

ワタクシの中にもそれがあったからなのか、

その選手を退部させることなんて出来なかった。

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それは一体なんなのか、いまだに的確な言葉にすることはできない。

が、おそらく最も近い言葉が「驕り」と言うものであろう。

よく言われる平家物語の中に

「驕れる者も久しからず、ただ春の夜の夢の如し」とある。

驕りというものは、必ずしも現在の強さと比例して起こるのではない。

怖い部分はそこだと思う。

「過去の強さ」をもとに湧き上がってくるのではなかろうか。

先ほどの1部での入替戦の相手は近大であった。

決して舐められるような相手はいなかった。

でも2部での楽々優勝(を本人達はしていたつもり)と言う経験は、

強豪近大の前で、2-7という弱者の驕りをさらす結果となった。

・・・・・

今の一年生は高校でのキャリアのある選手ばかりだ。

そして上級生も対抗戦などを通して、強豪相手に結果を出してきた選手だ。

でもあくまでそれは過去の栄光に過ぎない。

相手は逃げ惑うだけの草食動物ではない。

草食動物だって、追い詰められれば反撃に出る。

そういう意識を忘れてはならないと思う。

・・・・・

本当に強い人間は相手がどうであれ、環境がどうであれ、

自身の最高のパフォーマンスを欲し、どんな小さなミスでも嫌う。

金持ちはケチが多いといわれる。

それは一般の人がどうでもいいと思うレベルのミスでも

排除しようとしているからだろう。

真の知識人といわれる人は、知識の吸収をやめることはない。

もうこのレベルまで知識があるからと、吸収を辞める似非エリートだ。

知識は放っておけば過去のものになることを、彼らは知っている。

筋力だって、技術だって同じことであろう。

それは身体的な知識とも言える。

・・・・・

もう一つ大事なのは表題の通り、「我々はなんであるか」ということであろう。

KGボクシング部は1部常連校ではない。

近い過去には1部にいたこともあるが、それを維持できなかったから

現在2部リーグにいるのである。

1部に挑む2部の人間のことをなんと言うか。

チャレンジャーである。

そのことを忘れてはならない。

と同時に、上記の本当に強い人たちは、常に自分は

チャレンジャーである、と認識している人たちであると思う。

チャンピオンがチャレンジャーという意識を持ち、

チャレンジャーが驕っているとしたら、

チャレンジャーが勝利を得るのは一体何百年後であろう?

by かんとく

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