先般、料理教室は予習していた麻婆豆腐であった。
旨かったが、メンバーに恵まれなかった。
前回のメンバーの一名が欠席したので、冴えないオッサンが加わり、
4名1組の班にて調理。
冴えないオッサンは本当に冴えなかった。
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冴えないというのは料理のことではない。
調理はソツなくこなしていたが、
私も含めたメンバーが楽しい雰囲気を作ろうとしていたのに、
それを理解していない模様。
2名1組で料理する上でも、相方とコミュニケーションもとっていなかった。
おまけに後片付けをしているメンバーがいるのに、
さっさと食っていた。食うなら食うで一言もない。
ああいうのはよろしくない。
切り替えて、本日は早々に次回の予習でロールキャベツ。
しかしスープもコンソメしたのはまずかったか。
味噌、コンソメ以外のスープも作れるようになろうとおもいつつ。
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さて、本日は仕事が休みであったので、部室に赴く。
休講明けなので授業もあるため、出席者は少なめ、1年生多めであった。
ということで、宮本と石丸には神戸学院の軽量級対策をさっさと施し、
新人に距離、そしてパンチとガードの関連性について説明しながら、
離れた距離でやる練習方法をコーチする。
これを取り入れたのは、だいぶ前に書いたニールと
関大のアレックスとのマスを見て感じたことが、きっかけである。
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奇しくも本日帰宅後、読んでいた桜井章一著『人を見抜く技術
~20年間無敗、伝説の雀鬼の「人間観察力」~』にも
これと関連する記述あり。
著者、麻雀の達人で現在は麻雀道場を開いているが、
この著書の要旨はバランスについてであった。
上述の件は著書内記述から下記。
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「学問やそのほかさまざまな専門分野を学ぶ上で、自分より知識のある人、
もしくは自分よりその分野に深く関わっている人からものごとを
教えてもらうのは当然のことだ。
いわゆる”できる人”たちからいろいろなことを学ぶ。
しかし、それが”人生を学ぶ”ということになった場合、私はその学ぶ対象に
”できる人”を決して選ばない。私が人生を学ぶのは”出来る人”からではなく、
”できない人”からだ。
人は、あるレベルに達すると(達したと思っているのは本人だけ
だったりするのだが)、そのレベル以下の人からは学ばなくなる。
学ぼうとするのはたいてい、この人は『自分より上』と判断した人からばかりだ。
たいがいの人が”能力のある人”を敬っていくようになってしまう。
でも、私は違う。”できない人”を見て、『なんでできないんだろう?』と考え、
そこから学んでいく。
私は別に、能力のある人をバカにしているわけではない。
ただ私は、何かに秀でているからといって、その人から教えを請おうとは
思わないだけなのだ。それよりも、”できない人”に断然興味がある。
『なぜできないんだろう?』『人間って、なんでこうなってしまうのだろう?』と考える。
そこから学ぶこと、得ることのほうがはるかに身になるし、
自分を成長させてくれる。」
「本当は、学者や大学教授などのように、世の中から”能力がある”と
思われている人こそ、”できない人”から学ぶ姿勢を持つことが大切なのだ。
余談だが、かつて”得ることと捨てること”のバランスの取れている
大学の先生に一人だけお会いしたことがある。
それは、京都大学の名誉教授である数学者の森毅先生だ。
森先生は私がそれまでに会ったどの大学教授とも違っていた。
数学の大家である森先生がこうおっしゃったのだ。
『統計学ほどあてにならないものはない』と。
数学者のトップでありながら、数学を否定するようなことを平気でいう。
この話を聞いたとき、『ああ、この人はやっぱり数学者のトップなんだな』
とわかった。頭ではなく、体でそう感じたのだ。」
(上述p.123~126)
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ワタクシが、一年生に今日のような教え方がいいなと思ったのは、
上述の通り、ニールとアレックスのマスを見たことがきっかけである。
はっきりいって、当時は二人ともヘタクソであった。
当たり前だ。今までの経験がないのであるから。
でも彼らが熱心に練習している姿勢から、そういう一つのセンテンスを
得させてもらった。
”できない人”からも学ぶ姿勢を失うのは、ワタクシ自身にとって
非常にもったいないことであると気づいた。
そう考えると、上述の冴えないオッサンも、どこかの大学の主務も
ワタクシに、わざわざそれを教えてくれているのかもしれない。(ニヤリ)
by かんとく