ま、関学だけでなく、どこの大学も文部科学省という所の指針で
授業時間の確保を要請されているようである。
祝日を決めているのは大学ではなく、国家という奴で
そこは祝う日だから休みにしてもいいよ、というのも国家である。
第一、月曜日の祝日を増やしたのはどこぞの政治家なわけで、
ワタクシは不思議に思うのだが。
まあ平和な歴史が60年以上も続けば、訳が分からない人間による
元々の根拠から外れた運用がなされるのも、よくわかる。
身近にもその例を発見した。
・・・・・
練習日誌である。
↑ 練習日誌。それぞれが自己管理で書いている。
↑ 合同練習で一緒になった人民の練習のポイント、
其々に修正した方が良い気づき等を書き、ミーティングで伝えている。
上述は吉田のノートで、これはまだいい例である。
というのも、合同練習の日にしか書いていない人民の多いことよ。
上述のように、其々の選手へのポイントは書いているが、
自分に関する練習のポイントも日付も書いていない。
明らかに書かされているノートなら、別にやらなくてもいいのだが。
そのノートをつけている要点を確認するのは本人自身のためであり、
その恩恵を受けるのは書いている本人である。
↑ ハラグチョのノート。他のメンバーが新しいノートを買う中、
前4回生・山下が半分使った後のノートを再利用するという、
画期的視点を持ち、環境と自分のために行動する男。
日付を書いていない、という問題点はあるが、さすがに進学校の出身。
ノートの取り方を心得ている。
・・・・・
要はいかに後で利用できるものを作るか、という事が大事なのである。
そういう意味でノートは一つの手段に過ぎない。
「ノートなんかとらんでも俺強いし」と思っている人間もいるだろう。
それはそれでいいではないか、アンタの人生である。
ワタクシは取ったほうが良いと思っている。
人生はうまくいくときだけではない。
失敗すると、今まで当然にできて事が、なぜかできなくなる時がある。
とくにスポーツ競技や対戦競技(例えば将棋や囲碁などもそう)。
悪い点は指導者が修正してくれるかもしれない。
でも同時に修正してくれない、或いは出来ないかもしれない。
その時、自分で修正しなければならないとき、よりどころとなる物がある方がよろしかろう。
それを人類は保険と言い、社会で成功する企業や個人はそれを
最大限活用しているのであるが、それができるから成功の確率が高いのである。
もう一度、自分に合う方法というのも考えてみるのもいいだろう。
by かんとく