『廃人』について byかんとく

かつてはヒロポン(つまりは覚せい剤)が合法だった時代があった。

今違法なのは当然だが、戦後すぐのことにはそれが当たり前に流通していた。

尤も合法でもやりすぎると廃人になる、という話は当然その時代にも

あったようだ(曖昧な記憶だが、そんな記述を『はだしのゲン』で読んだような気がする。

広島県は“平和”について他の県民では考えられない位、“戦後教育”が続いている。

だから学校の先生の考えなのか、それともPTAなのか、誰かが置き忘れただけなのか

わからないが、小学校の図書室や、児童館〈公民館に子供版〉の図書室などに

当然存在した。)が、今でも「廃人」という単語が残っているようである。

もっともボクシング=廃人、というイメージが長く続いてきた結果だろうが(にやり)。

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本日、芦崎治著『ネトゲ廃人』(新潮社)を読む。

ネトゲ=インターネットオンラインゲーム、ネットを通じてコンピュータだけでなく

他のゲーマーとコミュニケーションを取りながら進めていくゲーム、である。

課金システムの弊害が叫ばれて久しい携帯ゲームについて、

いまいちピンときていなかったが、この本を読んでみてある意味納得。

どんなゲームでもそうだが、時間をかけただけ、うまくなるというのは

経験して作業がうまく早くできるようになる点において当然だとおもうのが、

第1.5期のゲーム世代のワタクシの世代であろう。

1979年生まれだから、おもろいものにはすぐ飛びつく小学生のころには

1980年代、スーパーマリオやら魔界村やらドラクエやらは大人気。

ただ悲しいかな、貧しい港町にて貧しい幼少期を過ごしたワタクシは

新品でゲームを買った記憶がない。

(貧しい港町だからということはないだろうが、1980年代の段階ですでに

中古ソフトの販売流通網ができていたということなわけで、

それを最初に商売に結び付けた人はすごい。)

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そんな昔話はさておき。

ネトゲにはまるのはこの“時間をかける”という点だけでないことらしい。

リアル(現実世界)の仕事で汗水たらして稼いだ“金までかけている”という点で、

やめるにやめられない状況になるらしいのである。

いうなれば、事業家が苦節の末立ち上げた事業を設備投資もしながら

(場合によって銀行に借金し、返済しながら)育て上げた後には、

どんな苦境においてもこの会社だけは手放したくないと思うようなものか。

どうやらこれは続けていっても良いことがなさそうだと思っていても

やめられないことになるようである。

事業(ネトゲでも)をそこまで育て上げたという周りの称賛の声もあるだろう。

それを手放すのが怖い、ということもある模様。

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事業で失敗するという人について全く同等には語れない(そこにはベンチャーみたいに

うまくいっても失敗しても自分一人の身の話よという人だけでなく、

親族や周りの人との兼ね合いで引き継がざるを得ない場合もあろうし)のであるが、

上述著書に書いてある、“ネトゲ廃人”の陥る人々のバックグラウンドは

「自分にも、家族にも関係ない」と言える人は多くないだろう。

お金をかけすぎているから、時間をかけすぎているから抜けられない、ということは

射幸心やら、モッタイナイ精神やら、自尊心やら、元々の性格、家庭環境など

いろんな要素が絡まりあっているわけであろうけども、

何かしらの失敗、トラウマからの逃避に使って嵌るということも多々あるようで。

そんなトラウマから立ち上がりたいという人は、やっぱりボクシングですね。

ほら、この前の日本人同志の素晴らしい世界戦のラウンド間に、

辰ちゃんなどとともに出てた、顔面にプレート入ってる元14歳芸人もやってまっせ。

大丈夫、今の柔らかグローブならアマチュアボクシングやっても

廃人にはなりません(にやり)。

by 暇かいな、暇だからこそ、無駄に書く 【俳人】かんとく

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