『教養』について BYかんとく

先般、勉強について書いた。

あれは目的到達のための考え方の基礎だ。

だが、あれはいずれ誰でもやらざるを得なくなるから、いつかは身につくことでもある。

大学時代に身につけておいてほしいものが、もうひとつ。

『教養』だ。

大学の授業なら一般教養、つまり『パンキョウ』だ。

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大学時代思ったものである。一般教養なんて何の役に立つのか。

なもので、あんまり授業に出た記憶もない。

もっとも、私の性格として興味のない科目に関しては、

出席をとって試験の点数に上積みしてくれる授業以外、全く出ていなかった。

興味がある科目はたとえ出席をとらなくても全出席するが、、、。

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何故『教養』が大切と考えたか。チョイ長いぞ。

昭和的社会なら、専門職は会社内に囲い込むことが当たり前だった。

技術を他者から買うよりも、自前でコツコツそろえるほうが、

会社にとってリスクは少なく、しかも独占した技術は他社に高く売れたからだ。

だが今の世の中、専門職は社内だけの存在ではなくなりつつある。

能力のあるものは自分で人脈を通じてアピールして

売ることが簡単な世の中にありつつある。

例えば人材派遣業の急増で、理系でも派遣社員として働くことも当たり前。

また、ネットを通じて、相手が必要なノウハウだけを売ることも簡単になった。

また蓄積すべきノウハウは社内にあるとは限らず、

ネット環境等の発達により、お手軽に無料で新しい方法を学ぶ環境も整いつつある。

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そんな世の中だからこそ、専門職を組み合わせるための調整役が

今まで以上に渇望される可能性は高い。

いわば志摩工作のような存在だ。

ちょっと前まで、もう志摩工作は要らないといわれていたが、

専門職をつなぐ橋渡しはビッグチャンスといえる。

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橋渡し役に必要なもの、それは相手の専門をすべて理解することではない。

広くあらゆるものの初歩の考えを理解しておいて、

疑問を相手に投げられる能力だと思う。

ある言語は(外国語であり、PC言語であり、趣味であり)は

単語がわかれば、相手の言わんとすることを、時間を掛ければ理解できるものだ。

だけれども、ある言語が存在していることを知らなければ、

勉強しようという考えすら浮かばない。

あるものが存在するということを「そういうもの」が存在するんだ、と

まず知るきっかけを、今のうちから広げておけば、チャンスを見過ごさないですむ。

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一般教養も教養のひとつだが、思うに教養とは『明日使えるムダ知識』ですらない。

50年以内に使えるか使えないか、その判断すら難しい。

しかしながら、そのムダ知識の量が多ければ多いほど、

専門職の人を知るきっかけになることは確かだ。

そういうことの積み重なりが、思いもよらない結果につながる可能性もある。

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また、おもしろい会話を相手にできるということは、

その相手に好かれる可能性を高めることにもつながろう。

男同士は無駄な会話が大好きなものだし。

プロ野球だの、パチンコだの、漫画などというものは生きていく

技術に関してはなんら特にならない。

女性から見てみれば、わけのわからん会話で仲良くなることも多い。

それを大事にしてほしいわけだ。

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さて、ボクシングに置き換えてみよう。

みんなはすでに自分なりの教養を持っているはずだ。

あるものは格闘技の経験であり、あるものは野球部で身につけた体力と礼儀であり、

あるものは数学で身につけた、結果への最短方法の検索かもしれない。

それらを有用に使う方法が、自分の『専門』に一生懸命取り組んでもわからないかもしれない。

そういう時は逆に、『教養』の部分から導き出される可能性は捨てきれない。

結論の持っていき方がわからんが、

とりあえず、勉強はしっかりやりましょう。無駄にはならんって。

BY かんとく

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