『いつ”生きること”に気づくか』について byかんとく

前に読み、人に貸していた本が戻ってきたので、本日の丁稚先への車中はそれを読む。

内田樹著『ひとりでは生きられないのも芸のうち』(文芸春秋)

ま、このHPではおなじみの人物ですね。

先ほど、何回くらいネタにしたかを検索したら6件出てきた。

部員の中には、検索かけたら内田先生に負けている人民もおるのだろう(にやり)。

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まあ、その本を車中にて読んでいると、妹よりメールが入る。

おじが亡くなったとのこと。

齢30を超えると、知っている誰かが亡くなることも増えてくる。

残念なことであるが、これは自然の摂理であり、抗えない。

檀家の実家によく出入りしてくれている坊さんがよく言ってる言葉。

「人間はいつか死ぬ。その順番は誰にもわからんのよね。

それは必ずしも生まれた順ではないし、生まれたばかりの赤ちゃんもいるし、

これから未来広がる若者もいる。

他に死んでもええような人がおってもその人ではなく、亡くなった人が選ばれたんよ。

でもわれわれはそれを受け止めにゃならんのよ。死んだ人はそれが役割よ。

悲しんでくれる人に、世の摂理を教える最後の役目なんよ。」

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亡くなったおじは、どちらかというと、貧しい呉(呉という町の発端は軍港。

ゆえにどこかの農家の次男坊以下の、何も持たない人間が集まったという歴史がある)

の人間らしい、表現や人間関係構築が得意でない人間であった。

そのおじが、まさしくちょっと前、お見舞いに行ったときに言っていた言葉が印象に残る。

「わしは今まで、ようけ(たくさん、という意味)、人に対して不義理をしてきた。

亡くなったお前のおじいさんにも、お前のお父さんお母さんにも、

ようけ業をいらした(迷惑をかけた、という意味)。

わしが今こんなになってしまっとるのも、そういう業の結果よ。

みんなにほんまに迷惑をかけてきた。

一緒に来てくれとるお母さんだけじゃのぉて、すまんかったいうて、

お父さんにも伝えてくれえや。

今日は来てくれてほんまにありがとうの。」

おじはこの時、自分の命がわずかしかないと悟っていたのではないか、と思う。

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残念ながらワタクシはできた人間ではないので、自分の普段の行動に

あまり頓着していない。

それは、やはり人がいつか死ぬ、つまり自分がいつか死ぬ存在だということを

しっかり理解できていないからだろう。

祖父が亡くなった時まで生きられるとして、もう1/3を過ぎた。

おじの年まで生きていたとしたら、今までと同じ年数くらいしかない。

あるいは明日、逝く可能性は残念ながら0には近いだろうが、決して0ではない。

上述の内田氏は著書の中でこう書いている。

「私が『いまこの瞬間は過ぎ去って二度と戻らない』という『取り返しのつかなさ』の

感覚を知ったのは十六歳のときである。

スキーを覚えて夢中になった。

部屋でスキー板を履いて、ストックを振り回しながら想像上のウェールデンを

しているときに、ふと『あと何シーズン、スキーができるだろう?』と考え、

指折り数えたら、最大でも五十シーズンくらいしかできないということに気がついた。

スキーができる冬が一年ごとに減ってゆくということを知って、部屋の真ん中で

ブーツとスキー板を履いたまま呆然としたことを覚えている。

たぶん、その瞬間に私は『子ども』から『青年』というものにばりばりと

皮を破って変化したのである。

『おっと、こうしちゃいられない』という言葉が私の口を衝いて繰り返し出るようになったのは、

その日以降のことである。」

(上述『一人では生きられないのも芸のうち』p.237)

人の死、というものはできれば避けて通りたい。

が、人の死に接する、あるいはそこに思いをめぐらせるからこそ

逆説的に、生きることや生き方を考えざるを得ないものでもある。

合掌。

by かんとく

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