それにつけても、ニュージーランドの地震被害は
日がたつにつれて想像を絶するものだったとわかる。
とはいえ、阪神大震災時は震災発生後の3日目なぞでも
ほとんど状況のわからなかったが、機器の発達のためだろう。
あの有名な大聖堂の近くにいた人の、ビデオ撮影映像がメディアに流れている。
NZといえば誰が知っている、あの大聖堂が崩れることを誰が予想できただろう。
そして、留学して勉強している先で、震災に巻き込まれ、
ましてや自分が学ぶ建物が崩れ去ると、誰が予想しえたであろう。
地震の輝かしい未来のために、勉強しようと思って赴いた地。
そこで亡くなられた方の無念のほど、想像もつかないほど深いはずだ。
亡くなられた方へのご冥福をお祈りするとともに、
被災者の方々には、少しでも安らげる場所が早急にできることをお祈りいたします。
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思えば格闘技というのも、現代日本においては特殊な場だろう。
まず、一般的な日本社会で殴りあうような場は、だんだん失われつつある。
だからだろうか、15年前のプロレスはU系といわれるリアルファイトに舵を切った。
10年前、総合格闘技が華盛りとなった。
「そんな技、ぬるいよ」と。「もっとリアルに”痛さ”を感じさせる技を見せてくれよ」と。
「俺は客だ、金払ってんだぞ」と。
興行の関係者は「お客様のご要望に答えないと客入り減る。
客足が遠のけばくいっぱぐれる。生きていけない」から、
リアルを必要以上に追求するようになったのかもしれない。
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他者の死に際して、人は自身の人生について考えざるを得ない。
先般紹介した『一億総ガキ社会-「成熟拒否」という病』にて、
死というものを考える機会が、現代ではどれだけ失われているかの記述があった。
それは、国や社会や、医者の方々や、栄養価を考える人々や、
他国からのインフラ必需品輸入に携わる方々といった多くの方々の
努力の上で成り立ったものであるが、それがために本来すぐそばにあるはずの
”死”というもの、いまある身近にある”安全な環境”がいかに移ろいやすく、
崩れやすいものかということを忘れさせる副作用も、現代日本に引き起こしている。
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前々から気になっていて文庫化されたので読んだ本、『田村はまだか』
(朝倉かすみ著、光文社)
小学校の同窓会の後、薄野にある”チャオ”というバーに5名の男女が集まり、
その時代の話に花を咲かつつ、到着の遅れている”田村”を待つ。
思い出話の中で、”田村”が自暴自棄になっている女の子に言う言葉が
なかなか心に響く。以下、要約(同著、p.34~35)。
女の子は言う「どうせ、いつかは死ぬんだ」「いつか、絶対、みんな、死ぬんだ」
その子に対して”田村”は言う。
「だから、生きてるんじゃないか」「どうせ死ぬから、今、生きているんじゃないのか」
「どうせ小便するからって、おまえ、水、のまないのか?
どうせうんこになるからって、おまえ、もの、くわないのか?
喉、渇かないのか?腹、空かないのか?
水はくいものは、小便やうんこになるだけか?」
「でも、今は生きてるんだ」「おれの指は動く」「おれの足は動く」「心臓が動いている」
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大事なことは、上記の言葉に尽きると思う。
それぞれがその当たり前を、当たり前と思わずに享受することこそ
当たり前のことである世の中であってほしい。
不幸な人がいれば横で癒せる人間であるとともに、
自身がそこに巻き込まれたならば、最大限に生き延びる能力を
今、ここで、身につけてほしいと、オジサンは思います(にやり)。
by かんとく