本日の練習において(11/1) BY かんとく

自転車で仁川駅からの坂を上がると、いつもより多い人通りの大学前。

正門の向こう側から若い男女の賑やかな嬌声が聞こえてくる。

正門から見上げられる時計台をモチーフにした「新月祭」の看板が目に入ってくる。

人間にとって祭りは必要不可欠なものって知ってたかい?

祭りには、人間が退屈な日常から脱けだし、「ハレ」を体験するための

社会的意義と言うものがあるんだよ。

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と、まるでIWGPのような書き出しで始めてみた。

IWGPとは石田衣良著『池袋ウエストゲートパーク』という小説。

内容と言えばうちの選手くらいの年齢の若者が主人公で、

青春群像劇&サスペンス的なものか。

1,2冊目あたりは一時期ドラマになったりと話題になったもの。

都会での若者のおかれている実態を垣間見れる作品。

興味があればどうぞ。

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さて、表題の件。

本日の練習には、奥村先輩にご足労いただいた。

上記の通り、学祭開催中ということで車を止めるのに苦労された模様だが。

詳細をきちんと掲示板にアップしていなかった不注意をお詫びします。

練習後、主務と学生トレーナーの現状のボクシング部について懇談。

某不良部員(大学生に不良と言うのはどうなんだろうか?

不良と言うのは中、高に当てはまると言うイメージがぬぐえない)

の態度についてから派生して様々な大人の意見を拝聴。

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「一生懸命やったからこそボクシングの試合ではこだわりもってできるんじゃないの?」

「ボクシングを引退した後、フルマラソンを走ったとき、途中まで走ったけど、

途中から足が痛くなって歩いて完走した。でも全然達成感なんてなかった。」

「やるべき仕事をやり通すことは大事なこと。こういう理由でできませんでしたなんて

社会人じゃあ通用しないし、馬鹿にされる。」などなど。

実にありがたいお言葉だ。

今の世の中、親でもない人が、そんなにいってくれるなんてないぞ。

今この瞬間に心に響いてなくても、この言葉は非常に意味があると思うので

部員諸君には頭の隅に残しておいてほしい。

最初の部分に戻るが、祭りについても同じことだと思う。

なぜ岸和田市ではあんなにだんじり祭りが盛り上がるのか。

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理由は、その祭りのために多くの時間と労力を投じているからだ。

だからこそ、実際の「ハレ」の日である祭りを心から楽しむことができる。

祭りを運営する人たちは、結果に対して充実感に浸ることができる。

どうだろう、岸和田祭りに対してぜんぜん知らずに訪れた人が

その人たちとまったく同じように楽しめるだろうか?

もちろん楽しめたとしても、一種のエンターテインメントとしてでしかないのではないか。

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別に置き換えるならば、例えば旅行の計画をしたとしよう。

その場所に対してまったく本を読んだり、ネットで調べたり、知っている人に聞くなどの

下調べをせずその場所に行ったとしても、果たして本当の意味で面白いのだろうか?

ツアーなどでは驚きはあるかもしれないけれども、

あーやっぱりこの場所を選んで正解だったいう充足感や、

逆にあっちにしておけばよかったという後悔の念に浸れるだろうか?

旅行上手の人たちはどんな過程を経てきたとはいえ、その体験を得ているのではないだろうか?

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ボクシングに対しても同じことが言えると思う。

ボクシング部に入った当初は、多分ほとんどの学生が

徳山選手や長谷川選手をみてあんな風になってみたいというものだと思う。

でも、それはテレビに出ていたきれいな風景のあの場所に旅行に行きたいと

考えるのと一緒のことではないだろうか。

旅行大好きたちな人たちと同じようにその場所を満喫するには、

情報収集や段取りを面倒くさくてもしなければならない。

ボクシングについても同じことが言える。

あんなボクシングをしよう、したいと願うのであるならば

それを実現するために、情報収集や段取りが必要になってくる。

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目の前にあるものを実際に思った形にしたいのならば

それらのことがどんなに苦しかろうが遣り通さなければならぬのよ。

そしてそれを通して初めて充実感を得ることができる。

たとえ最後の試合で負けたとしても、

「悔しいけれども俺は4年間充実したものにできた」

と「ハレ」の舞台を楽しむためにはやはり何気ない「日常」(練習)に

こだわっていかないとおもう今日の練習でした。

BY かんとく

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