『追いコン2013(卒業生に贈るつもりだった言葉)』について byかんとく

昨日までの合同練習後、我々は早々に同志社大学を辞し、

追いコンに向かった。

全くタダでもせわしない3連休だったのだが、

ワタクシは練習へ向かう前、あれほど嫁に

「忘れず持っていくのよ」と言われていた記念品を家に忘れる。

という事で嫁に電話して届けてもらったのだが、

実家での悠々自適な3連休を過ごしていたにもかかわらず、

あれだけ「忘れるな」と言っていた品を忘れた旦那に、嫁は当然ね・・・。

卒業生に渡した記念品は、それだけ思いの籠った物なのです(にやり)。

さて、追いコンの時に話した内容が案外好評だったので

採録しようかと思ったが、やっぱりやめた。

あの話は思いついた時のタイミングと、聞き手である学生の考えとが

ばっちり当てはまった時は良い話になるが、

そうでなければ変な解釈をされかねない話でもあるので。

ということで、以下に本来話そうと思っておいた別の話を書く。

・・・・・

アベノミクスの期待感から、世の中が何となくフワフワした

楽天的な雰囲気に覆われている。

経済が成長すれば、給料も上がるし、失業者も減るし、

日本の未来は明るいような気がするからだと思う。

でも同時に、今まで好景気を経験したことのない若者たち、つまり卒業生は

いつまでもこの雰囲気が続くはずがないと思っているだろうし、

結構、着実にお金を貯金するようになるんじゃないかと思う。

賢いことである。

ムダ金使って常にヒーヒー言っているよりはよろしかろう。

・・・・・

しかしながら、「一つだけこういう考えもある」というのを覚えておいてほしい。

キリスト教の話の中には「バベルの塔」というものがある。

古代文明は発展を重ねつづけたことで、自らの発展に自信を持ち、

神の高さまで塔を伸ばそうとかんがえ、実行した。

神はそれに怒り、塔を破壊し、人々から共通の言葉を奪った。

世界の各地では先般まで共通の言語だった相手と別の言語を使うこととなり、

言葉をかわすことができなくなった。

・・・・・

ネットインフラの整備により、世界中の通貨が一挙に集中するようになった現代は

この「バベルの塔」が神の目の高さに届くときと、同じタイミングのように

ワタクシは感じるのである。何かがヤバいんじゃないか、と。

同じくネットインフラの整備により、企業はより効率的な経営を

求められるようになった。

誰に?上場企業は株主、子会社は親会社に、独立した非上場企業は銀行や、

世の中の雰囲気を尤もだ、と感じ取ったオーナーに。

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この漠然とした不安はおそらくこういうことだからだと、最近気づいた。

この効率化が促進されれば、紙幣の世界におけるバベルの塔に行きつく。

何故か?

紙幣とは何か。国が刷っているただの紙切れである。

それで物が買えるのは、ワタクシたちがそれに価値があると思い、

同時にそれが「自分の周りで流通している」からである。

経済の基礎の話だが、紙幣が大量に刷られ過ぎるとインフレ、

流通が留まればデフレという話があるが、じゃあこのパターンはどうだろう。

紙幣がバブルの塔のように一か所にうず高く積まれたら。

一か所に集まり、流通が止まれば、その紙幣はもはや紙幣ではなくなる。

効率化の行きつく先は、みんなが便利に使っているものが、

その機能を失う事にもつながりかねない。

だからユダヤ人たちは寄付という観念を持ったのではないかなと。

・・・・・

ミクロの視点で書こう。

一人の人間Aがおり、彼がひたすらに紙幣を求めていたとする。

B、C、D、E、Fという鉄加工業の取引先があったとする。

このうちFがどうも経営を悪化させているらしいとなった場合、

ひたすらに紙幣を求めるAはリスクを避けて取引をやめるだろう。

すると残るはB、C、D、Eとなる。

でまたEから借金を申し込まれ、返済の見込みが取れていない。

この場合もAはEとの取引をやめ、残る取引先はB,C、Dと減る。

このようにひたすらAが効率化を求めた先にあるのは何だろう。

全く取引先がなくなるということである。

・・・・・

もちろん、Aは仕事をしているのだから新たな取引先を探す。

例えば効率的な営業ルートを考えて、銅加工業の分野に客を絞ったとする。

今は景気がいい、だから新たな客である銅加工業のG、H、I、J、Kは儲け、

Aもしっかり儲けられるだろう。

しかし新たな産業の台頭により金属分野の加工業に何の仕事もなくなった時、

銅加工はもちろん軒並み悪影響を受け、同時に今まで自分を生かしてきた

金属加工業者との付き合い方のノウハウもすべて失うことになる。

Aにとっては効率的に紙幣を求めることは、同時に紙幣しか残らないことになる。

・・・・・

Aが寄付をしている人間だったらどうだろう。

寄付にはほとんどの場合、自分が得だと思うような場面はない。

しかしながら、その得に思えない寄付という行為は同時に

効率的に考えれば自分が会おうともしない相手との出会いの場にもなる。

弱者と言われる人々のためであることが多いだろう。

が同時に志を同じくした強者と出会うかもしれないし、

その寄付の未来を託せるような若者と出会うかもしれない。

或いは、弱者の人たちに教えてもらったり、アイデアが浮かぶかもしれない。

これらのことは効率的には起こりえないだろう。

しかしそのことによって、他人は助かり、自分は人生において

大切にするべき人や考えとの出会いがあるかもしれない。

これは大きな収穫である。

・・・・・

今までの自分の枠を超えるためにも、一つには無駄をすることにも価値がある。

ひとつ例を挙げるとすると?

そうだね、寄付先はやっぱり第一候補はボクシング部でしょう(にやり)

by 最後を安っぽくしてみたけれども、別にボクシング部に限らず、

今まで考えたこともない事に出してみてもいいのではないかと思う、かんとく

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