『日本文化的身体操法』について byかんとく

本日休み、ということで部室に行く。

みんな頑張って練習はしているけども、ただそれだけであるように見える。

攻撃においてその点は顕著で、一つは手数不足、もう一つは考え方の不足。

手数については、たとえばシャドー、同じテンポで続けても仕方ないはずである。

試合においては、いかにチャンスを作り出すか、そして作り出したチャンスで

相手を逃さないか、逃したとしてもさらにすぐチャンスを作り出すかが大事である。

シャドーボクシングはそのためのものであるはずである。

ならばしっかり打って出てこそ意味があり、その後に追撃する、或は回避してすぐ打つことを

念頭に置くべきであろう。

無論、攻撃と同時にガードが下がる等の点検をするのもシャドーだろうが、

そんなものは合同練習前に済ませておけば良い。

・・・・・

もう一つは考え方の不足が見られる。

一般に攻撃に関しては、いくつでも改良の余地があるはずである。

にもかかわらず、いつまでも同じ動き、たとえばフックの打ち方である。

例えば攻撃の概念を1対1から戦争に広げるならば、今の主力は火器、火力である。

さすがにそれと同じことはできないが、近代以降の塹壕戦において

大きな意味を持つものとしてはマシンガンを上げることができる。

受け手が圧倒的な弾幕を張れば、攻め手は戦力とその意志を奪われることとなる。

さらに戦争のツールを遡ると、長距離砲の概念は投石器に求めることができる。

遠くの相手に大きな力を当てるには梃子をいかに使うか、ということである。

その答えに行きつくためには、「ストレートをフック的に打つ方法」という考えもあれば

「フックの長距離化法」という考えもあるのであるが、果たしてそういう風に

自分の武器の用法を考えてみたことがあるだろうか?

・・・・・

古武術研究家の甲野善紀氏の著書の中にこのような記述があった。

「忍術の伝書に『一器をもって諸要を弁ずる者を忍びの巧みな者という』との言葉あります。

このことを『一器多用』といい、日本文化の特色のひとつです。つまり、ひとつの道具、

ひとつの器で色んなことができるということです。例えば日本家屋の部屋は、

布団を敷けば寝室になる、そしてそれをたためば応接間にも、食堂にもなります。

食器にしても箸のような単純なものほど応用が利きます。明治時代、森鴎外がドイツに

留学した時、煮立ったビーカーか何かのなかに誰かが小物を落として困っていたのを、

ガラス棒二本で箸とし、簡単に取り出したので、ドイツ人がみな感嘆したそうです。」

(甲野善紀著、『古武術に学ぶ身体操法』岩波書店、p.49)

もう一度書くと遠くにいる相手の側面から攻撃するためには、

「ストレートをフック的に打つ方法」という考えもあれば

「フックの長距離化法」という考えもある。

無論それ以外の考え方もあるのだが。

by そういう物の考え方については、『五輪の書』が非常に参考になるので

再読しようかなと思っている、かんどく

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