ふと疑問、テスト真っ只中の1回生は単位、取れるんだろうか?
スポーツ選抜入試という「競技人口少なくマニアックなボクシングをやって
大学に入ったが、勉強の能力は担保されていない」方式で入学した者どもよ。
君たちがしっかり勉強しなければ、後輩は関学に入れなくなる。
とりあえずスマホなんて眺めていないで、机に向かいなさい。
スマホは便利だけれども、真の意味で君の人生を助けてくれやしません。
自分の人生を助けられるのは、間違いなく、自分自身だけです。
テスト中にスマホに助けてもらおうとしたら、それをカンニングと言うのである。
KGではカンニングばれたら、その回の全試験の単位が完全に取り消し。
真偽を、ボクシング部員よ、わざわざそんな体を張って確認せんでええからな(にやり)。
あ、それと勉強もせずに教授に単位くれ、と言ってはならんのである。
体育会にやさしいという先生以外は、そんなもの、100%怒ります。
大学生ともあろうものが、そのような態度というのは間違いなく嫌われます。
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そんなことはさておき。
最近やっと本が読める様になったので、とりあえず気が向いた本を手に取り読んでいる。
『遺伝子の不都合な真実』は遺伝子好きなワタクシにはおもしろかったが、
『独裁者の最強スピーチ術』〔川上徹也著、星海社〕読んでは、
部員の洗脳に利用してみようと思ったり(おそらく失敗するのであまり意味はない)、
『ひまわり事件』〔荻原浩、文芸春秋〕を読んでは、自分が老人ホームに入るときには
きちんと契約書を読むだけでなく、事由ごとの質問もしとかな、
どえらいボッタクリに合うかもと危惧したり、
『大富豪アニキの教え』(丸尾孝俊著、ダイヤモンド社)を読んでは
やっぱり金持ちになって上海ガニを腹いっぱい食いたいものだと思って、
『金持ち父さん貧乏父さん』を再度読み直してみたりしたのであった。
うむ、意味のない読書である。
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そんなどうでもいい本の読み方をしていたら、ふと頭の中に「どうも世の中には
答えの書いてある本と、答えが出ない本がある」ということが浮かんだ。
え、意味が分からない?ワタクシもわかりません。
こんなこと書いてたら、なんかかっこええと評価されないかなと(にやり)。
小説は、時代小説など英雄の一生を描くという方法もあるが、
「答えの出ない本」というものも多いのである。
つまりこれら「答えの出ない本」は「意味」というものがない。
まあ読者の好みによってか「答えに行きつくちょっと手前」で終わる物も多いのだが。
対して、自己啓発書には「答えの書いてある本」が多い。
この場合、主な読み手はサラリーマンであったりするので、
近距離的な物事の打破の方法を知りたい、という欲求にこたえる意味で
「答えの書いてある本」が重宝がられる。
そしてこういう本に書いてある著者は、かなり断定的なものである。
別にそこまで断定しなくてもいいのに、と思うこともしばしば。
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ワタクシの好きなマンガ『じみへん』(中崎タツヤ著、小学館)には
その答えが書いてあった。
お祈りしている若者の目の前に神様が現れた場合の言葉。
(週刊スピリッツの5月らへんに乗っていた話、確かこんな感じ、というもの。
毎週2頁なので単行本は全然進んでいません)
人「神様、あなたを信じたら救われますか?」
神様「完全に」
↑ 普通の感覚では神様への信仰は深くなるだろう。
人「神様、あなたを信じたら救われますか?」
神様「80%」
↑ 不思議と、じゃあやめとこうかな、と思ってしまう。
このニュアンス、理解できたかな?
理解できなければ、この項の最初の段落に戻って「完全に」とか「間違いなく」という所、
或いは断定・命令口調の箇所を「80%」「何々かもね」に変えて読みかえよう。
不思議と腑に落ちます。
byミステリーの大作『イニシエーションラブ』(乾くるみ著、文芸春秋)風味に
前後の文章のリンクを張ってみた、かんとく